本記事は逃げ上手の若君235話のネタバレ記事です。
こんにちは、「メイトの漫画まとめ速報」管理のメイトです。
本日は2026年1月26日配信された「逃げ上手の若君」235話について徹底解説していきます。
少し前まで、時行は逃亡エンドだと思ってたんですけど。
まさかの死亡エンドで悲しい・・・。
たださすがの松井先生、最後まで時行らしさと異常さをだしてくれました。
あと、今回わかりましたが、処刑エンドは回避、確かに刑場で死んだ描写は史実にはありましたが、首をさらされた史実はなかった・・。
逃げ上手の若君235話のあらすじ
家族と郎党、配下を盾に逃げ上手の道を断たれた時行は、足利尊氏に捕縛。
良い尊氏になった、と思ったら笑い出したので、このやろっと思いました。
捕縛された時行は死を覚悟していますが、首をさらされるわけにはいきません。
なにしろ罪人ではないのですから。
それを踏まえ、一計を考え、まずは泣き叫び処刑開始を長引かせることに・・・。
登場キャラクター
こちらでは逃げ上手の若君に登場する主要キャラクターについてまとめました。
登場キャラクター(主要)
雫(しずく)
頼重の娘。情報収集と根回しに長け、冷静に仲間を支える。時行への想いを胸に、実務と精神面の柱となる。
弧次郎(こじろう)
祢津一族の太刀の名手。快活で負けん気が強い。戦場で仲間を鼓舞し、逃若党の副将として信頼厚い。
亜也子(あやこ)
怪力と豪胆さが持ち味の少女武将。明るく天真爛漫。時行を護る誇りを胸に、前線で道を切り開く。
風間玄蕃(かざま げんば)
変装・諜報の達人で元盗賊。金にうるさい現実主義者だが、義理堅く要所で活路を開く曲者。
吹雪(ふぶき)
二刀と軍略に秀でた冷静な策士。情に厚く、幼き者を見捨てない。時行の理想に共鳴し一党に加わる。
逃げ上手の若君235話の内容
こちらでは逃げ上手の若君235話の内容をネタバレ込みで書いていきます。
- 北条家は罪人ではない、と処刑を拒否
- 観衆の中、神速の逃げを披露する時行
- 時行は心臓を病んでいる
- 病死か事故死に逃げる気か!?
- 尊氏と時行、最後の鬼ごっこが始まる
前の回の尊氏は覚悟が決まっていて、かっこよかった。
でも今回の尊氏は眼玉飛び出したり、なんかかっこ悪かったですねw
鎌倉幕府滅亡から、1353年北条時行死去までのタイムライン
| 西暦 | 元号(北朝/南朝) | 出来事 | 詳細 |
|---|---|---|---|
| 1333年(元弘3/正慶2) | 元弘3/正慶2 | 鎌倉幕府滅亡 | 新田義貞の鎌倉攻めの末、北条高時らが東勝寺で自害。幕府が事実上崩壊し、武家政権が「空白」に入る(のち建武政権へ)。 |
| 1333年(同年夏〜) | — | 建武政権(建武の新政)開始 | 後醍醐天皇が親政を開始。武士恩賞・新秩序づくりが進む一方で、論功や既得権をめぐり不満が噴き上がる。 |
| 1334年(建武元) | 建武元 | 建武改革が本格化 | “公家中心”と受け取られやすい政治運用が、武士層の不満を強める。足利一門・東国武士の空気が変わり始める。 |
| 1335年(建武2) | 建武2 | 中先代の乱(北条時行の挙兵) | 北条時行が鎌倉奪還に成功し、短期間「鎌倉を取り戻す」。ただし支配は長続きせず、足利勢の反撃で崩れる。 |
| 1335〜1336年 | 建武2〜3 | 足利尊氏が朝廷と決裂へ | 中先代の乱鎮圧の過程で尊氏の軍事的主導が強まり、朝廷の統制が効かなくなる。以後、全国規模の内戦モードへ。 |
| 1336年(延元元/建武3) | 延元元/建武3 | 湊川の戦い | 朝廷方が敗北し、楠木正成らが戦死。尊氏は京都の主導権を握り、政権の「軸」が武家側へ大きく傾く。 |
| 1336年(同年後半) | (北)建武/(南)延元 | 北朝の成立/南朝の成立 | 尊氏が光明天皇を擁立(北朝)。後醍醐天皇は吉野へ移って南朝を立て、ここから「二つの朝廷」が並走する。 |
| 1336年(12月ごろ) | (北)建武/(南)延元 | 建武式目(幕府の基本方針) | 武家政権としての理念・統治方針を明文化。のちの室町幕府体制の「骨格」づくりが始まる。 |
| 1338年(暦応元) | (北)暦応/(南)延元 | 足利尊氏、征夷大将軍に | 「武家の棟梁」が公的に確定し、幕府が名実ともに成立(と整理されることが多い)。 |
| 1339年(延元4/暦応2) | 延元4/暦応2 | 後醍醐天皇 崩御(吉野) | 南朝は後村上天皇へ。対立構造は「個人の怨恨」ではなく、体制として固定化していく。 |
| 1340年代 | (北)康永〜貞和/(南)興国〜正平 | 各地で抗争が常態化 | 「京都(中央)」と「関東(鎌倉)」、そして地方武士団が複雑に結び替わり、前線が入れ替わり続ける時代に。 |
| 1350〜1351年 | 観応元〜2/正平5〜6 | 観応の擾乱(前夜〜勃発) | 幕府内部(尊氏と直義/側近層)の対立が爆発し、全国規模の内戦へ接続していく。 |
| 西暦 | 元号 | 出来事 | 詳細 |
|---|---|---|---|
| 1333年 | 元弘3 | 幕府滅亡→潜伏へ | 北条一族が崩壊し、時行は表舞台から消える(各地の支援者・遺臣勢力が再起の地盤になる)。 |
| 1335年 | 建武2 | 中先代の乱 | 挙兵して鎌倉を奪還、一時支配に成功。ただし短期間で足利方の反撃を受け、再び敗走。物語的には「二度目の鎌倉」がここ。 |
| (補足) | — | この後の“再登場” | 以後、南朝方や反足利勢力と結びながら、関東で再び名が出てくる(あなたの1352年の「鎌倉占拠」帯に繋がる)。 |
※補足:鎌倉幕府滅亡(東勝寺合戦)の日付や、建武式目・湊川・将軍宣下などは史料表記が複数あります。この記事では一般的な整理に合わせています。
| 西暦 | 元号(北朝/南朝) | 出来事 | 詳細 |
|---|---|---|---|
| 1351年(観応2/正平6) | 観応2/正平6 | 観応の擾乱 | 尊氏と弟・足利直義の対立が決定的に。直義は南朝(後村上天皇)と手を組み、尊氏方の高師直を討つ。幕府内戦が全国化。 |
| 1352年2月(文和元/正平7) | 文和元/正平7 | 小手指ヶ原の戦い | 尊氏軍が直義軍を武蔵国小手指ヶ原で破る。直義は鎌倉へ退く。 |
| 1352年3月 | — | 鎌倉攻防・直義降伏 | 尊氏が鎌倉を攻撃し、直義が降伏。間もなく幽閉。 |
| 1352年4月(または3月末) | — | 足利直義死亡(鎌倉) | 鎌倉の延福寺で死去。尊氏の命による毒殺説が有力。観応の擾乱が一応の終結。 |
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1352年 春〜夏
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— | 南朝軍、鎌倉を占拠 | 南朝方の新田義興・北畠顕信・北条時行らが「直義の仇討ち」を掲げて鎌倉を急襲し、一時的に占拠。尊氏は鎌倉を放棄して京都へ退く。 |
| 1353年(文和2/正平8) | 文和2/正平8 | 南朝、京都を奪取 | 後村上天皇の命で北畠顕能・春日顕国らが京都を攻略。尊氏はいったん近江へ退却。その後尊氏は鎌倉へ行き、関東平定へ・・・今ココ |
| 1354年(文和3/正平9) | 文和3/正平9 | 京都奪還戦 | 尊氏・義詮父子が反撃し、京都を奪還。南朝勢は賀名生(奈良)へ退く。 |
| 1355年(文和4/正平10) | 文和4/正平10 | 再度の京都攻防戦 | 南朝が京都を再び占領するも、尊氏・義詮が撃退。北朝政権を再建。 |
| 1356年(延文元/正平11) | 延文元/正平11 | 関東の再統治 | 南朝方の新田義宗・義興兄弟らが関東で挙兵。尊氏は子の足利基氏を鎌倉公方として派遣し、鎮圧体制を確立。 |
| 1357年(延文2/正平12) | 延文2/正平12 | 南北抗争小康状態 | 全国的に戦線が膠着。尊氏は京都にて幕府体制の再整備を進める。 |
| 1358年4月30日(延文3/正平13) | 延文3/正平13 | 足利尊氏死去(京都) | 京都の等持寺で病没。享年54。後を継いだのは嫡男・足利義詮。 |
| 西暦 | 元号 | 出来事 | 詳細 |
|---|---|---|---|
| 1353年(文和2/正平8)ごろ | 文和2/正平8 | 鎌倉占拠後 | 鎌倉占拠戦に参加していた北条時行は、のちに尊氏方に捕らえられ鎌倉で処刑。 |
| (時期補足) | — | 死因・時期 | 明確な記録は少ないが、1353年6月前後(または1352年説)が通説。史料(『鎌倉代々記』など)では鎌倉陥落後に捕縛・斬首と記される。 |
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1351:観応の擾乱勃発(尊氏 vs 直義)
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1354–1355:尊氏・義詮が京都を奪還・確保
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1356–1357:南北膠着(関東再統治の整備)
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1358:尊氏死去
※史料により月日や細部に異説があります。
逃げ上手の若君235話の感想
史実なら斬首は確定。
でもさらされているかどうかは未確定。
ここをしっかり拾ってくるあたり、さすがの松井先生って感じですね。
松の木は本当によく燃えます、灰になるまで、は難しいでしょうけど表面上を焼くだけなら十分でしょう。
このままの流れなら、逃げながら心停止し火の中へ、の流れでしょうか。
郎党二人は迷いなく、自身の首を切るとかになりそう。
あの二人も完璧にどこかおかしいから・・・・。
